経歴・エピソード

安室奈美恵の下積み時代からブレイクまで!女優時代やポンキッキーズ、沖縄時代についても

沖縄アクターズスクールでの厳しいレッスンを乗り越えて上京し、デビューを果たした安室奈美恵さん。

その後数年間にわたる売れない時期を経て、日本を代表する女性アーティストへと昇りつめました。

そんな安室奈美恵さんの、下積み時代からブレイクまでの道のりをまとめました。

安室奈美恵の下積み時代からブレイクまでの道のり

沖縄アクターズスクールに通い始める

友達の付き添いで行き、スカウトされる

安室奈美恵さんは小学5年生の頃、友達の付き添いで行った「沖縄アクターズスクール」にスカウトされます。

安室さんの家庭は金銭的な事情からスクールに通わせる余裕はなかったそうですが、校長のマキノ氏が「特待生にする」と熱烈に呼び込みました。

安室さんは歌とダンスにのめり込み、片道約1時間半の距離を歩いてスクールに通ったといいます。

「チビッコのど自慢大会」に出演

そんな安室奈美恵さんは、小学6年生の時にローカル番組「HOTNIGHT おきなわ愛ランド 夏休みちびっこカラオケ大会」に出演。

もともとシャイで、自己主張をあまりしなかったという安室さん。沖縄アクターズスクールにも内緒で出演し、見事優勝を果たしました。

「将来は歌手になりたい」と宣言

当時のスクール仲間は、普段シャイな安室さんが笑顔でスマイルしながら歌って踊っているのを見て、とても驚いたそうです。

番組では司会者より「小学校では金管クラブでトランペットをやっている」と紹介されていた安室奈美恵さん。

インタビューでは「将来は歌手になりたい」と宣言。内向的な性格ながら、心の中には強い思いを抱いていたことがわかりますね。

スクール内のトップ選抜グループに選出

沖縄アクターズスクールでは圧倒的な練習量と競争心で、めきめき歌とダンスのスキルを上げていった安室さん。

その後、スクール内のトップ選抜グループ「SUPER MONKEY'S」に選ばれ、沖縄のローカル番組などに出演し始めます。

東京での芸能活動をスタート

「SUPER MONKEY'S」の琉球空手を取り入れた斬新なダンスパフォーマンスが一気に注目を集め、全国ネットへのテレビ出演が決定。

安室さんはメンバーとともに上京し、CMやテレビなどに出演し始めます。

これからデビューして、有名になるんだ!という希望に溢れていた時期でしょうね。

「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出演

安室奈美恵さんは中学2年生の14歳の時、「SUPER MONKEY'S」のメンバーとともに「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に出演。

番組では「琉球空手の美少女」として紹介され、キレのある「蹴り」を披露しました。

インタビューを受ける際の表情も、当時まだ14歳だったとは思えないような凛々しさがありますね。

空手習得はメジャーデビューのため?

安室さんは校長のマキノ氏に「歌って踊るだけではインパクトに欠ける」と、琉球空手の習うことをすすめられたそう。

そのため中学時代の2年間、学校とスクールの合間をぬって毎朝7時から道場で個別指導、夜は週3回、一般クラスで訓練を受けたといいます。

超多忙な中、2年も通い続ける根性は相当なもの。それだけ、彼女の中に「デビューして売れたい」という強い想いがあったのでしょう。

「SUPER MONKEY'S」としてメジャーデビュー

安室さんはついに1992年9月、東芝EMIより「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」で「SUPER MONKEY'S」としてメジャーデビュー。

ライジングプロダクションに所属を開始し、社長・平哲夫によるプロデュースも開始しました。

デビューすればテレビで見ていたような歌手の人たちと同じ番組に出られる!と心躍らせていたという安室さん。

しかし現実は厳しく、なかなかヒット曲に恵まれませんでした。

「自分がセンターなせいで売れないんだ」

「自分がセンターなせいで売れないんだ」と思い悩んでしまった安室さんは、プロデューサー・平氏に何度も「沖縄に帰りたい」と訴えたそう。

しかし、プロデューサーは「お前は日本の宝になる」と安室さんを説得。安室さんはスーパーなどでの地道な営業活動を続けていきました。

当時はまだ沖縄アクターズスクールからはデビューも多くなく、「沖縄の人は売れない」という風潮もあったそう。

そんな中でもめげずに頑張れ、と説得される安室さんは、それだけ才能を見込まれていたということですよね。

テレビドラマ初出演、女優デビュー

まだブレイク前だった1993年には、女優さんとしての活動もされていた安室奈美恵さん。

1993年1月11日~3月15日放送のテレビドラマ『いちご白書』に出演し、ドラマデビューを果たします。

「演技は無理です」

もともと「大女優になりたい」と沖縄アクターズスクールに入学した安室さん。

しかし、のちに演技に対して「恥ずかしい」という気持ちが芽生え、のめり込むようになったそう。

そのため、デビュー後は演技はあまりしたくなかったそうで、事務所に「演技は無理です」と泣いて訴えたこともあったそうです。

この頃いくつかドラマや映画に出演していたのは、プロモーションとして事務所側が提案していたからだったのかもしれません。

初々しくてとても可愛いですよね!

「バックダンサーで終わりたくない」

1993年12月に放送された「紅白歌合戦」では森口博子さんの「ホイッスル」という楽曲のバックダンサーを務めた安室奈美恵さん。

当日はスーパーモンキーズの一員として出演しましたが、アーティストの後ろで踊っている自分にとても悔しさを感じたそうです。

その後、1995年には「Chase The Chance」で紅白に初出場することとなった安室さん。

当時の悔しさをバネに、ソロで紅白出場を実現させてしまったというのがすごいですよね。

「ポンキッキーズ」にレギュラー出演

1994年4月に、安室さんはフジテレビ系列の「ポンキッキーズ」のレギュラーメンバーに抜擢されます。

そして、鈴木蘭々さんとともに"シスターラビッツ"を結成。シングルCDの発売も行いました。

ピンクのかわいらしいうさぎの被り物をして出演し、ビジュアルだけでなく、歌唱力にも注目が集まりました。

「安室ちゃん」の愛称のきっかけに?

歌ってい踊っている時のかっこいい安室さんと、着ぐるみを着た可愛い安室さんのギャップもこの番組の魅力だったそう。

「安室ちゃん」の愛称で呼ばれるようになったのも、この番組がきっかけだったと言われています。

グループ名が「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に

「ポンキッキーズ」へのレギュラー出演が決まった3か月後、安室さんの所属していたグループの名前が変更されます。

1994年7月リリースの「PARADISE TRAIN」より、「SUPER MONKEY'S」から
「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」に改名。

この頃から徐々に、安室さんはグループの中で歌唱をメインで務めるなど、存在感を表していきます。

ヒット曲「TRY ME~私を信じて~」との出会い

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グループ名が変わった時期と同時期に、安室さんはライジングの平氏からエイベックスの松浦勝人氏を紹介されます。

そして、松浦氏のプロデュースのもと、1995年1月にシングル「TRY ME~私を信じて~」をリリース。

オリコン初登場は49位ながら有線で徐々に人気を集め、73万枚の大ヒットとなりました。

「やっとヒットが出てくれた」

安室さんはのちにこの時期について「やっとヒットが出てくれた(時期)」と振り返っています。

14歳でデビューした安室さんにとって、長い下積み時代はとてもつらいものだったはず。その分、一気に喜びと希望に満ち溢れたことでしょう。

伝説の音楽番組「夜もヒッパレ」のレギュラーに

そして、安室さんは1995年4月から、伝説の音楽番組「夜のヒッパレ」のレギュラー出演を開始。

ここからさらなる快進撃を巻き起こしていきます。

「この子はモノが違う」

安室さんとともに番組MCを務めていた中山秀征さんは、初めて会った時すでに「この子は全然ものが違う」と感じたそう。

歌もダンスも抜群に上手い、おまけにバラエティの腕前もかなりのもの。売れるにしたがって態度が偉そうになることも全くなかったそうです。

トーク中は10代らしさ全開でかわいらしいのに、歌いだすと一気に大人のかっこいい女性オーラ全開。そのギャップも話題になりました。

抜群の歌唱力に注目が集まる

「夜のヒッパレ」への出演をきっかけに、その抜群の歌唱力を一気に全国に発信することとなった安室さん。

キーの高い小室ファミリーの楽曲などを次々を歌いこなし、Janet Jacksonの「BLACK CAT」をダンス付きでカバーすることも。

バラードからアップテンポまで歌い上げるスキルとそのカッコよさで、「歌手・安室奈美恵」という存在がどんどん認知されていったのです。

ピッチの正確さはその頃身につけた?

また、「夜もヒッパレ」はカラオケ番組という枠ではくくれないほど、生放送かつ生バンドも入る本格的な音楽番組だったそう。

リハーサルも入念に行われ、少しでも音程が違うとNGが出るほどだったといいます。

半音上げたり下げたり、原キーでベストパフォーマンスが難しいと何度も音合わせしたりといった徹底ぶりだったといいます。

安室さんはピッチが正確であることでも知られていますが、これは「夜もヒッパレ」出演でもかなり鍛えられたのでしょうか。

超ハードスケジュールだった?

「夜もヒッパレ」出演当時は、『TRY ME』がヒットした後で、すでに爆発的な人気があったという安室奈美恵さん。

そのため他番組との掛け持ちも多く、超ハードスケジュールの中、リハーサルに参加していたそうです。

朝からダンスリハ、続いて歌のリハ、夜に本番という過密スケジュールだったとか。プロ意識の高さが凄すぎますよね。

「安室ちゃんが歌うと売れる」

また、中山秀征さんは、番組出演時に一番凄いと感じたことについて「安室ちゃんが歌うと売れる」ということだと語っています。

夜もヒッパレは他アーティストのヒット曲をカバーする番組ですが、安室さんがカバーすると、そのアーティスト自身の曲が売れるのだそう。

ただでさえヒットしているアーティストの曲を安室さんがカバーすることでもっと売れてしまう。その影響力の高さに驚いたそうです。

他のアーティストの曲までも自分のものにして歌いこなしてしまう、アーティストとしてのスキルの高さが伺えますよね。

実際、「ヒッパレで安室ちゃんが歌っているのを見て次の日CDを買いに行った」という声も多かったよう。

安室さんに憧れる女性たちが「私も安室ちゃんみたいに歌いたい!」とカバーしたアーティストの楽曲を購入したことも多かったかもしれません。

カバーするアーティストの世界観はしっかり引き出しつつ、安室節を加えて、楽曲をよりカッコよく見せる。

カバーをしてもらったアーティストの方たちも、安室さんにカバーしてもらうことでより幅広い世代に楽曲を知ってもらうことができますよね。

安室奈美恵がスターになるまでを見届けた番組

番組MCの中山秀征さんは「夜もヒッパレ」について、「安室奈美恵の売れない頃からスターになるまでを見届けた番組」だとも語っています。

「夜もヒッパレ」がまだ「夜もヒッパレ一生けんめい」という番組名だったころから出演している安室さん。

1994年半ば頃に「夜もヒッパレ一生けんめい」に準レギュラーとして出演していたころは、まだブレイク前でした。

「スーパーモンキーズ」の一員として番組に出演し始め、「安室奈美恵withスーパーモンキーズ」を経て「安室奈美恵」としてソロデビュー。

その後の快進撃は、皆さんもご存じのとおりです。

まとめ

今回は、安室奈美恵さんの下積み時代と、ブレイクまでの道のりについてまとめました。

沖縄アクターズスクールで培った抜群の歌唱力とダンススキル、そしてド根性をもってスターダムへと上り詰めた安室さん。

ブレイクまでの道のりは決して平坦なものではなかったでしょうが、それも沖縄で鍛えた強い心を持って乗り越えたのでしょう。

その後、小室哲哉氏とのタッグで数々のミリオンセラーを連発、10代にして最年少記録を次々に打ち立てていった安室さん。

ファッションやメイクを真似る女性たちも急増し、「アムラー」と呼ばれる社会現象も巻き起こすほどの人気を獲得していきます。

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安室奈美恵のプロフィール

名前:安室奈美恵(あむろなみえ)
生年月日:1977年9月20日
年齢:46歳
血液型:O型
出身地:沖縄県那覇市
身長:158cm
体重:40㎏
スリーサイズ:B75-W58-H84
職業:歌手、ダンサー

1992年9月にスーパーモンキーズのメンバーとして東芝EMIよりメジャーデビュー。

1995年にavex traxよりソロデビューし、2018年9月をもって芸能界を引退した。

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